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よく噛む庶民・あまり噛まない武士? 武士の子孫は庶民と顔立ちも違う —— 江戸時代の食生活が顎にもたらした影響

目次

  1. 江戸時代の身分制度と「武士のアゴ」
  2. どんな標本を、どうやって調べたのか
  3. 武士と庶民で違った「アゴの形」
  4. 食生活と咀嚼がアゴに与える影響
  5. 武士と庶民の「顔つき・アゴの違い」の比較図表
  6. この研究から見えてくること

1. 江戸時代の身分制度と「武士のアゴ」

江戸時代(1603–1867年)の日本社会は、法律で武士と庶民(町人・農民など)に厳しく分けられた身分制社会でした。
武士は世襲の「武家身分」であり、戦いを家業とする特権階級として位置づけられ、庶民との間を自由に行き来することはほぼありませんでした。

近年、東京都心部の発掘により江戸時代の多数の人骨が見つかり、棺の材質(陶棺=武士、木棺=庶民)などから身分と骨格を結びつけて調べられるようになりました。
過去の研究では、武士は庶民より頭が長く、歯並びの不正が多く、う蝕は少ないが歯の摩耗も少ないといった特徴が指摘されていましたが、下顎骨の詳しい角度や立体的な形までは十分に検討されていませんでした。

この論文の目的は、「江戸時代の武士と庶民で、顎顔面の形にどのような差があったのか」を、矯正歯科で用いる分析法と3次元スキャナーを使って定量的に比較することでした。

2. どんな標本を、どうやって調べたのか

調査対象

研究に使われたのは、東京の池之端・崇源寺・正見寺という3つの遺跡から出土した男性の頭蓋骨で、いずれも江戸時代後期(17~19世紀)のものです。
陶器の棺に埋葬された30体を「武士」、木の棺に納められていた38体を「庶民」として分類し、20〜59歳の成人男性で、頭蓋に大きな破損がなく、奥歯で安定した咬み合わせが保たれている標本だけを選びました。

測定方法の概要

  1. 上下の歯列がきちんと噛み合うように頭蓋を位置づけ、携帯型3Dスキャナーで頭蓋・歯列を立体的に取り込みました。
  2. 矯正歯科で一般的に用いられる骨格と歯の基準点(nasion, point A/B, pogonion, menton, gonion など)を3Dデータ上で指定し、顎の角度や歯の傾き、顔の横幅などを計測しました。
  3. 横顔方向では顔面骨・下顎骨の角度、歯の傾きなど11項目、正面方向では頭蓋・上顎・下顎・頬骨の幅など合計6項目を測定し、統計的に武士と庶民を比較しました。

角度・長さの再現性もチェックされ、誤差は許容範囲内だったため、2回の測定値の平均が代表値として使われています。

3. 武士と庶民で違った「アゴの形」

下顎骨の角度の違い(「顔の長さ」と関連)

骨格の角度の比較では、次の2点で有意な違いが見つかりました。

  • 下顎平面角(mandibular plane angle):武士の方が庶民より大きい
  • 下顎角(gonial angle):武士の方が庶民より大きい

下顎平面角や下顎角が大きい人は、一般に「縦に長い顔(ハイアングル)」の傾向があり、下顎の骨がやや細長く、前下方に垂れ下がるような形になりやすいと考えられます。
この結果から、武士は庶民よりも「縦長で、下顎幅が比較的細い顔つき」の傾向があったと解釈できます。

一方で、顔面全体の前後的な出っ張り(facial angle、convexity angle、A-B平面角など)には、武士と庶民で有意差はありませんでした。

3-2. 前歯の傾き(下顎前歯は武士の方が「立っている」)

歯の角度では、「下顎中切歯の下顎平面に対する角度(L1 to mandibular plane)」にのみ差があり、武士の方が値が小さい、つまり下顎前歯がより直立に近い状態でした。
それ以外の前歯の全体的な傾きや上下顎前歯のなす角度、咬合平面の傾きなどには大きな差はありませんでした。

3-3. 顔の横幅・アゴの横幅

骨格の「幅」の比較では、興味深いパターンがみられました。

  • 頭蓋の幅(両側の耳の上の骨・porion間の距離):武士の方が庶民より広い
  • 下顎角部の幅(mandibular width):絶対値では庶民の方がやや大きい
  • ただし、頭蓋幅に対する比率でみると、庶民は下顎幅、下顎第一大臼歯間幅、頬骨弓(zygomatic arch)幅すべてが武士より相対的に大きく、「噛むための骨格」が横に張っている傾向がありました。

一方、上顎犬歯間幅・上顎第一大臼歯間幅は、武士と庶民でほとんど差がなく、上顎歯列の横幅そのものは身分による違いがほとんどなかったことが分かります。

4. 食生活と咀嚼がアゴに与える影響

4-1. 武士と庶民で違った食生活

江戸時代の史料や先行研究から、武士と庶民の食生活には次のような違いがあったとされています。

武士

  • 主食は精白した白米が中心
  • 代々にわたり、う蝕は少ないが歯の摩耗が多いことが報告されており、論文では歯みがきによるものと考えられる、としています。
  • 比較的柔らかく精製された食事が多かったと推測されます。

庶民

  • 白米に雑穀(粟・稗など)を混ぜた硬めのご飯が多く、噛む回数や咀嚼力が必要な食事が一般的でした。

雑穀は白米よりも硬く、すりつぶすのに強い咀嚼力が必要なため、庶民は日常的に「よく噛む必要のある食事」にさらされていたと考えられます。

4-2. 咀嚼負荷とアゴの形の関係(動物・人での知見)

この論文では、武士と庶民の違いを理解する背景として、いくつかの動物実験や人骨研究の知見が紹介されています。

マウスやラットで、柔らかい食事を与え続けると、

  • 咀嚼筋(とくに咬筋)の発達が弱くなる
  • 下顎骨が短くなる、角度が変化する
  • 下顎骨や歯槽骨の骨量が減る
    といった変化が報告されています。

硬い食べ物をよく噛む動物では、咬筋が発達し、下顎角周囲や頬骨弓に骨の付加が起こり、アゴが太くなることが示されています。

古代日本人と現代日本人を比べると、古代人の方が歯の摩耗が大きく、下顎臼歯はより直立に近い傾きで、咬合力が強かったと推測されています。

これらの知見から、研究者たちは「日常的な咀嚼負荷の違いが、何世代にもわたって蓄積すると、下顎骨の形や幅、歯の傾きに差が生じうる」と考えています。

4-3. 武士の「細いアゴ」と噛む力の推定

本研究で武士は、庶民よりも

  • 下顎平面角・下顎角が大きく
  • 下顎幅や下顎第一大臼歯間幅、頬骨弓幅の比率が小さい

という特徴を示しました。

頬骨弓と下顎角は、咬筋が付着する「噛むための筋肉の土台」ともいえる部位です。
庶民ではこれらの幅が相対的に大きかったことから、研究者は「庶民の方がより強い咬合力を持ち、咬筋も発達していた可能性が高い」と推測しています。

対して武士は、柔らかく精製された食事が多かったため、庶民に比べて咬合力が弱く、下顎骨や頬骨弓の横幅が発達しにくかった可能性があります。
結果として、武士のアゴは「細く、やや縦長」で、庶民は「横に張った、噛む力に対応したアゴ」という形態的違いが現れたと考えられます。

5. 武士と庶民の「顔つき・アゴの違い」の比較図表

項目武士(侍)庶民
立場・身分武家出身の身分の高い人たち。お寺では特別な陶器の棺に入れられていた。町人や農民などふつうの人たち。木でできた棺に入れられていた。
顔の全体的な印象やや「縦長」の顔つきになりやすいタイプ。縦長よりも、やや「しっかりした」印象の顔つき。
アゴの形(横から見たとき)アゴの角度が大きく、下アゴが少し細長く見えるタイプ。アゴの角度は小さめで、下アゴがぎゅっと引き締まった印象。
アゴの横幅全体としてはやや「細めのアゴ」。横にやや広がった、「しっかりしたアゴ」。
奥歯のあたりの幅骨の大きさに対して、噛む部分の横幅は控えめ。頭の大きさに対して、奥歯まわりの横幅がしっかり広い。
ほお骨の張り方やや控えめで、横への張り出しは少なめ。ほお骨からアゴにかけて横に張り出し、噛む力を支える形になりやすい。
前歯の傾き下の前歯がやや「まっすぐ立っている」感じ。下の前歯が、武士に比べてわずかに前に傾きやすい。
顔の出っ張り(鼻や口元の前後)鼻や口元の「出っ張り具合」は庶民とほとんど同じ。武士とほぼ同じで、大きな違いはない。
食事のイメージ白いご飯など、比較的やわらかく精製された食事が多かったと考えられる。雑穀の混ざったご飯など、よく噛まないと食べにくい食事が多かったと考えられる。
噛む力・アゴの使い方毎日の食事で使う噛む力は、庶民より弱めだった可能性がある。硬めのものをよく噛んでいたため、噛む力が強く、その分アゴの骨も横に発達していたと考えられる。

この項目で挙げられた図と表から、「縦長で細めのアゴの武士」と「横に張った噛むためのアゴを持つ庶民」の対比が見えてきます。

5. この研究から見えてくること

この研究は、江戸時代の身分制度が「生活様式の違い」を通じて、顎顔面の骨格にも影響を与えていた可能性を示しています。
武士は何世代にもわたり、庶民とは異なる食事内容・食事制限のもとで生活し、その結果として「高角型で細い下顎」「相対的に狭い咬合・咀嚼系の幅」という特徴的なアゴの形を持つようになったと考えられます。

もちろん、骨格は遺伝的要因と環境要因の両方の影響を受けるため、「身分制度だけ」が原因とは言えませんが、長期にわたる生活習慣の違いが骨格に反映されうることを、実際の人骨と矯正学的分析で示した点に、この研究の価値があります。
日常の「よく噛む・噛まない」といった行動や食生活が、世代を超えて顔つきやアゴの形に影響しうるという視点は、現代の食生活や子どもの顎発育を考えるうえでも示唆に富んでいます。

参考文献

  • Samurai in Japan: Class System-Related Morphological Differences in Maxillofacial Regions in the Edo Period (2022)
    日本の武士:江戸時代の身分制度に関連した顎顔面領域の形態学的差異
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9368385/

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