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「正論」では人は動かない?国民皆歯科検診と唾液検査のリアルを行動変容から考える

最終更新日:2026/8/4

「歯周病は危険です」「定期的に歯科を受診しましょう」と伝えるだけでは、人はなかなか動きません。これは意識が低いからではなく、人間が“正しさ”だけでは行動を変えにくいという、行動科学的な特性によるものです。

この記事では、行動変容が起きた例と起きなかった例を出発点に、国民皆歯科検診の狙いと、その中心的な手段として注目される唾液検査の妥当性を整理します。さらに、医科の健診で高血圧や高血糖を指摘された人が実際にどの程度受診しているのかというデータを手がかりに、歯周病に当てはめた場合に見えてくる課題を検討します。

目次

  1. 人はなぜ正論で動かないのか
  2. 行動が変わった例、変わらなかった例
  3. 国民皆歯科検診がめざすもの
  4. 唾液検査はなぜ注目されるのか
  5. 陰性なら受診不要なのか
  6. 医科の健診後受診率はどれくらいか
  7. 歯周病に当てはめるとどうなるか
  8. これからの現実的な設計

1. 人はなぜ正論で動かないのか:知識と行動は別物

健康に関する知識は、行動を起こす必要条件ではあっても、それだけでは十分ではありません。多くの人は「大事だと分かっているけれど、今は困っていない」「面倒だから後回しにする」という理由で行動を止めています。

このギャップは、医療や公衆衛生の現場でも繰り返し確認されてきました。19世紀、医療者の手洗いが感染予防に有効だと示された後も、長年その遵守率は低いままでした1。知識の提供だけでは行動が変わらなかった典型例です。

歯科でも同じ構造があります。むし歯や歯周病は、自覚症状が出るころにはすでに進行していることが多く、「気づいてから受診する」という行動任せの仕組みでは対応が遅れがちです。

2. 行動が変わった例、変わらなかった例:人を動かす条件

行動経済学の分野では、人の行動を変える要因として、選択のしやすさ(ハードルの低さ)、感情的な動機づけ、そして社会的規範の3つが重視されています2

病院での手洗い(手指衛生)

19世紀、ある医師が「医者が手を洗えば妊婦の死亡率が下がる」と発見し激しく訴えましたが、当時の医師たちはプライドや面倒くささから無視しました。「感染予防のために手を洗いましょう」という知識の啓蒙だけでは、長年手洗い率は低いままでした。20世紀後半から現在にかけて激変し、定着しました。

これが普及した最大の理由は、単に「手洗いは大切です」という知識の啓蒙(啓蒙のみ)をやめ、「作業ハードルを劇的に下げる技術革新(ナッジ):速乾性アルコール手指消毒剤の普及」と「病院の評価や診療報酬に関わる制度化」がセットで導入されたからです。

レジ袋の辞退(環境保護)

「プラごみを減らそう」と何年呼びかけてもエコバッグは定着しませんでした。人々が動いたのは「有料化(1枚3円〜5円)」という具体的な制度ができた瞬間です。完全に定着したかと言われればそうではないかも知れませんが、実際に買い物をしていてエコバックを使っている人は施策前後で確実に増えています。

タバコの健康被害アナウンス

「タバコはがんのリスクを高める」「寿命を縮める」という医学的啓蒙は数十年前から徹底して行われてきました。しかし、「健康に悪い」という正論(知識)は誰でも知っていましたが、依存性やストレス解消という目前の快楽には勝てず、知識啓蒙だけでは喫煙率はほとんど下がりませんでした後に喫煙率が激減したのは、啓蒙ではなく「増税」「室内禁煙の法規制」「喫煙=カッコ悪いという規範の変容」によるものです。

飲酒運転の撲滅

「危険です」という知識だけでなく、被害者の痛ましい訴えや罰則の強化を通じて「飲酒運転=絶対的な悪」という社会の空気(規範)が作られたことで、人々の意識と行動が劇的に変わりました。

環境ホルモン問題とプラスチック・ダイオキシンへの意識改革

書籍『奪いとられた未来』などを機に「身近な製品の化学物質が人体や次世代に害を及ぼす」という衝撃的リスクが社会に共有されました。 法的な規制や有料化などの経済的インセンティブがない段階でも、「自分や家族の身を守りたい」という防衛意識が強く働きました。 その結果、消費者の自発的な不買・回避行動が広がり、企業の自主的な成分変更や脱塩ビ化を急速に後押ししました。

クールビズ(Cool Biz)運動の初期浸透

地球温暖化対策として2005年から「夏場のノーネクタイ・軽装」を政府が呼びかけたキャンペーンです。 法律や罰則などの強制力は一切ありませんでしたが、「軽装=合理的で環境意識が高い」という新たな価値観の提示に成功しました。

クールビズにおける「啓蒙」は何をしたのかというと、「手抜き」に見えないための免罪符(お墨付き)を与えた点にあります。

それまで企業が「電気代を浮かすためにスーツを脱ぐ」というのは、世間体やマナーの観点から不可能でした。そこに政府が大々的に「クールビズは格好いい・社会的正義である」と啓蒙したことで、「コストカットのために冷房を弱めて軽装になること」が、世間から「環境配慮の先進企業」として称賛される構造に一瞬で変わりました。

コロナ禍初期のマスク・手洗い

「自分がかからないため」だけでなく「周りにうつさないため」という共感や、「みんながやっている」という目線が組み合わさったことで、罰則がなくても一斉に行動変容が起きました。ただし、啓蒙だけで起きたことではなく店舗ではマスク非着用者の入店拒否やアルコール消毒の徹底なども影響しています。

行動変容を引き起こす構造と事例の分類

分類パターン主な動機づけ事例行動の決め手
① 啓蒙のみ身の危険・強烈なリスク認識環境ホルモン問題次世代への被害という衝撃的リスク情報が、強い自己防衛本能と自発的な不買行動を引き起こした。
② 啓蒙 + 実利大義名分 + コスト削減クールビズ(初期)「環境重視」という世間の大義名分(お墨付き)が、企業の「電気代カット」という本音の利益と噛み合った。
③ 啓蒙 + 制度・制約理解 + 経済負担・利用制限レジ袋の辞退「プラごみ削減」の知識ではなく、「1枚3〜5円の有料化」という微小な経済的負担が決定打となった。
③ 啓蒙 + 制度・制約理解 + 経済負担・利用制限タバコ喫煙率低下健康被害の周知に加え、「大幅増税」と「室内禁煙の法規制」による包囲網で行動制限が機能した。
④ 啓蒙 + 規範知識 + 同調圧力・社会的ペナルティ飲酒運転の撲滅危険性の知識に加え、「絶対的な悪」という厳しい社会の空気と過失致死傷罪などの厳罰化が定着した。
⑤ 啓蒙 + ナッジ・環境・制度行動ハードルの消滅 + 監査・経営評価現代の医療現場の手指衛生速乾性アルコールの bedside 配置(手間ゼロ化)と、診療報酬・病院評価という経営インセンティブが結びついた。
⑤ 啓蒙 + ナッジ・環境・制度・規範倫理観 + 同調圧力 + 店頭ルール・環境新型コロナ対策「他人へ移さない」意識や「他人からの目(同調圧力)」に加え、入店拒否ルールや消毒液の店頭配置が行動を定着させた。
⑥ 【不発】啓蒙のみ正論のみ(感情・手間に敗北)19世紀の病院の手洗い「手洗いが命を救う」という正しい知識のみで訴えたが、移動の手間や医師のプライドに阻まれ失敗した。

💡人が動く3つのスイッチ

この構造を踏まえると、歯科の受診行動を変えるためにも、知識の提供だけでなく、仕組み・感情・規範の3つを組み合わせる必要があると考えられます。

  1. 面倒くささをゼロにする「超低ハードルな仕組み」
  2. 「自分ごと」としてショックを受ける「感情の刺激」
  3. 「みんなやっている」という「社会の空気」

3. 国民皆歯科検診がめざすもの:受診を当たり前にする設計

厚生労働省は、生涯を通じた歯科健診の受診機会を確保する方針を「歯科口腔保健の推進に関する基本的事項」で示しています3。国民皆歯科検診は、この方針をさらに進め、歯科健診を「行く人だけのもの」から「社会全体の標準」に近づける考え方です。

ただし、現状では「歯医者に行けばよい」と理解していても、忙しさや費用、痛みへの不安、受診の優先順位の低さなどによって行動は止まりがちです。そのため、受診のハードルを下げる工夫が不可欠になります。

その一環として、職域健診や自治体健診との連携、そして唾液検査のような簡易検査の活用が検討されています。つまり、国民皆歯科検診の本質は「全員を一度に診る」ことではなく、「受診につながる導線をどう作るか」にあります。

4. 唾液検査はなぜ注目されるのか:低負担で気づきを作る

唾液検査が注目される理由は、非侵襲的で短時間に実施でき、集団健診に組み込みやすいことにあります。歯科医院への来院を前提とせず、まずリスクを見える化できる点が強みです。

厚生労働省の資料では、現在承認されている体外診断用医薬品として、唾液中のヘモグロビン濃度や歯肉溝滲出液中のAST量を測定し、歯周病リスクを評価する検査が示されています。これらは歯周病を確定診断するものではなく、歯科受診の必要性を判断するためのスクリーニングとして位置付けられています。⁴

行動変容の観点から見ると、唾液検査には検査の負担を下げる役割があります。また、結果が数値や判定として示されることで、「自分は大丈夫だろう」という認識を見直すきっかけになる可能性があります。

つまり、唾液検査は単独の診断法というより、受診行動を後押しする「入口」としての意味が大きいツールです。

5. 陰性なら受診不要なのか:最も重要な論点

ここで注意すべきなのは、唾液検査が陰性でも、歯科受診が不要になるわけではないという点です。

現在承認されている簡易検査で確認できるのは、唾液中のヘモグロビン濃度や歯肉溝滲出液中のAST量などを用いた歯周病リスクです。歯の本数、むし歯、歯周ポケットの深さ、歯の動揺、咬合状態、口腔機能、口腔粘膜、歯槽骨の状態などを総合的に診査するものではありません。⁴

そのため、陰性という結果だけから「歯周病がない」「ほかの歯科疾患もない」「今後の歯科受診は不要」と判断することはできません。

したがって、唾液検査の役割は歯科受診を不要にすることではなく、リスクのある人を歯科医院へつなぐことです。この限界を明確に伝えることが、予防の場面では重要です。

6. 医科の健診後受診率はどれくらいか:高血圧・高血糖の実例

医科の健診でも、異常を指摘されても実際には受診しない人が少なくないことが、複数の調査で明らかになっています。

協会けんぽ宮城支部の調査では、健診で血圧・血糖の異常を指摘され受診勧奨を受けた人のうち、3か月以内に受診した割合は約10.3%にとどまりました5。また、職域健診でⅡ度・Ⅲ度の未治療高血圧が判明した対象者に、健診当日に受診勧奨面談を受け、1か月後に状況を確認できた241人のうち、受診済みだった割合は44.8%でした。⁶

さらに、琉球大学の研究では、職域健診で新規に高血圧と判定された2,906人のうち、1か月後の受診率はわずか2.72%、6か月後でも7.50%にとどまったと報告されています7。これらの数値には調査対象や介入方法による差がありますが、いずれも「異常を指摘しただけでは、行動は大きく変わらない」という共通の傾向を示しています5,6,7

7. 歯周病に当てはめるとどうなるか:歯科受診への導線を考える

血圧や血糖は数値として異常を理解しやすく、また一般的に「放置すると全身に影響する」という認識も比較的共有されやすい、あるいは共有されてきている指標です。

一方、歯周病はひとつの検査結果のひとつの数値だけで明確な診断がつくことは少なく、複数の検査から総合的に判断する疾患であること、全身的な影響についての周知が不十分なことなどから、異常を指摘されても受診の必要性が伝わりにくい可能性があります。

前述の医科における受診率データ⁵⁻⁷は、歯科の受診率を直接予測する資料ではありません。対象者、異常値の基準、受診勧奨の方法、追跡期間も異なります。

しかし、健診で異常を指摘するだけでは、必ずしも医療機関の受診につながらないことを示す参考例にはなります。歯科でも結果を通知するだけで終わらせず、結果説明、再通知、予約方法の案内などを組み合わせた導線設計が必要です。

厚労省による簡易な口腔スクリーニングを用いた歯科健診について4 の案を見てみます。


これを見ると、結果がどうであれ歯科受診を勧められる流れが作られています。先の項で述べたように、簡易検査の結果が陰性であっても受診を勧めたほうが良い、というのが今回の国民皆歯科健診です。

血圧を測って数値が高くなかったら、医科の受診を勧められることはないでしょう。
しかし、唾液を測って数値が高くなかったはずなのに、歯科では受診を勧められることになります。

実際に導入された際のことを考えてみます。例えばある30代の方で、唾液検査結果が良かったものの、結果として歯科の定期検診などの受診を勧められることになります。そしてその10年後、40代の歯科検診時には検査結果が悪くなったので歯科を受診しましょうと勧められるわけです。

当人にとって、この検査の結果が良くても悪くても関係なく結局いつも歯科受診を勧められる、という事実に対して保健指導の内容を理解して貰えるのか。理解したけど忙しいから行かないでは意味がありません。納得して受診まで繋げることができるのか。

これら検査法を用いて実際に運用した場合、これを現場の個人の説明能力に依存せず、歯科受診へ自然と繋がる仕組みを構築できるのかが一番の鍵だと考えます。

8. これからの現実的な設計:検査より導線が重要

国民皆歯科検診で重要なのは、検査そのものだけでなく、検査後にどう行動へつなげるかです。

唾液検査を導入するだけでは十分とはいえません。結果説明、受診勧奨、未受診者への再通知、地域の歯科医院との連携まで含めて設計する必要があります。簡便に検査できても、その後の受診につながらなければ、早期発見・早期受診という事業の目的を十分に達成できません。

そして、何よりも重要なのは、それによる予防効果が社会が負担する検査・実施コストに見合うだけの効果があるのか。それを効果測定の具体的な方法まで検討されているかどうかです。

現実的には、職域健診や自治体健診に簡易検査を組み込み、歯周病リスクがあると判定された人を歯科受診へつなぐ流れが考えられます。これは、医科健診で高血圧や高血糖を指摘された人に受診を促す仕組み⁵⁻⁷と、基本的な考え方が近いといえます。

結局のところ、人は「正論」だけでは動きません。歯科予防においても、知識の提供に加えて、低いハードル、理解を超えた納得できる理由、行動しやすい環境をそろえることが求められます。

かわせみデンタルクリニックでは、健診結果を「見て終わり」にせず、次の受診や予防行動につなげる考え方を大切にしています。気になる症状や健診結果がある方は、お気軽にご相談ください。

➥続きの記事「歯科検診を「国策」にしている国は? 9か国の制度から考える日本の国民皆歯科健診

参考文献

  1. WHO guidelines on hand hygiene in health care(2009)
    医療における手指衛生ガイドライン
    https://www.who.int/publications/i/item/9789241597906
  2. Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness(2008)
    ナッジ:健康・富・幸福についての意思決定をよりよくするために
    https://books.google.com/books/about/Nudge.html?id=dSJQn8egXvUC
  3. 歯科口腔保健の推進に関する基本的事項(骨子案)(2022)
    https://www.mhlw.go.jp/content/10901000/001015736.pdf
  4. 簡易な口腔スクリーニングを用いた歯科健診について(2026)
    https://www.mhlw.go.jp/content/10804000/001698747.pdf
  5. 要治療者の受診行動の有無による医療費推移等に関する研究(2022)
    https://www.kyoukaikenpo.or.jp/assets/02_01_miyagi.pdf
  6. 職域健診における健診当日の高血圧受診勧奨の効果(2022)
    https://www.jstage.jst.go.jp/article/ningendock/37/4/37_675/_article/-char/ja/
  7. 職域健康診断における新規高血圧者の医療機関受診の実態~新規高血圧者の受診率は6ヶ月後でもわずか7.5%~(2024)
    https://www.u-ryukyu.ac.jp/news/62625/

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執筆・監修 中村 瞬
かわせみデンタルクリニック 院長 / 歯学博士(歯科麻酔学)/ 日本歯科麻酔科学会 認定医
医療記事をほぼ毎日更新中・TV取材多数
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