電子カルテの導入は小規模歯科医院の負担を減らせるか。医療DXへ向けて、現在の厚生労働省の公開情報から見えてくる問題を探る
目次
1. はじめに
厚生労働省は、医療DXの一環として電子カルテ情報の標準化と共有を進めています。 歯科でも、仕様と普及方法の検討が始まりました。
診療情報を医療機関の間で適切に共有できれば、紹介時の伝達は速くなり、転記も減るでしょう。 災害時に別の場所から情報を確認できる利点もあります。 しかし、端末を置き、紙の記録を画面へ移しただけでは効率化とは呼べません。
とくに小規模な歯科診療所では、院長が診療だけでなく、経営、スタッフ管理、機器管理まで担います。 認証に数秒余計にかかる。 画像を見るため別の端末へ移動する。 障害対応の契約が一つ増える。 個々は小さく見えても、積み重なれば処置時間と経営を圧迫します。
そこで問うべきは、「電子カルテに利点があるか」という抽象論ではありません。 小規模な歯科診療所が現場で得る利点は、入力負担、費用、診療の遅延、障害時のリスクを上回るのか。 これが本稿の中心となる問いです。
以下、現時点で確認できる制度上の事実と、今後の仕様で解決すべき課題を切り分けて考えます。
2. 電子カルテは医療機関の義務ではない
まず確認しておきたいのは、電子カルテの導入は、現時点で個々の医療機関に課された法的義務ではないということです。
2026年7月21日の厚生労働大臣会見では、医療機関における電子カルテの導入率を2030年までにおおむね100%とする目標について、達成に向けた義務を負うのは国であり、医療機関に電子カルテの導入を義務付けるものではないと説明されています。 また、国が今後提供する標準仕様の導入用アプリケーションも強制ではなく、現在使用している電子カルテを引き続き使うことや、強制的な更新を求めるものではないとされています。1
この発言は重要です。 「国が普及目標を掲げること」と「各医療機関に導入義務があること」は、同じではありません。
一方、全国保険医団体連合会は法改正前の段階から、制度の設計によっては電子カルテ導入が事実上の義務となり、地域の医療機関が淘汰されかねないとの懸念を示していました。2 ここで問題になるのは、法的な義務の有無だけでは制度の影響を評価できない点です。
2026年7月31日時点で、電子カルテを導入しない医療機関に一律の罰則を科す制度や、具体的な不利益を与える確定方針は確認できません。 したがって、「導入しなければ罰せられる」「不利益を与える方針が決まっている」と断定するのは適切ではありません。
ただし、将来、情報閲覧、補助金、診療報酬上の評価、他院との連携機能などが導入施設に偏ればどうなるでしょうか。 形式上は任意でも、診療所が導入を選ばざるを得ない状況は起こり得ます。 今後の普及策に欠かせないのは、非導入施設へ過度な不利益を生じさせない設計と、導入費用を誰が負担するのかという説明です。
3. マイナ保険証対応から考える「実質的な導入圧力」
この点を考える材料が、オンライン資格確認とマイナンバーカード読み取り機への対応です。
顔認証付きカードリーダーという特定の機器そのものが、法律上すべての医療機関に義務付けられたわけではありません。 しかし、保険医療機関・薬局では2023年4月からオンライン資格確認の導入が原則義務化され、従来の健康保険証の新規発行も終了しました。3 例外を除けば、保険診療を続けるうえで対応システムと機器を整備する必要性は非常に高くなりました。
導入時には補助制度が設けられ、カードリーダーが無償提供された例もありました。 それでも、レセプトコンピュータの改修、ネットワーク工事、初期設定、周辺機器、保守、更新まで、実際にかかる費用のすべてが常に補われたわけではありません。 とりわけ補助終了後の継続費用は医療機関側に残ります。
ここから得られる教訓は、名目上の「任意」だけで安心することはできない、ということです。 電子カルテも同様です。 非導入に罰則がなくても、行政手続き、情報共有、診療報酬上の評価で差が拡大すれば、実質的な導入圧力となります。
普及策と同時に示すべき情報は、少なくとも次の五点です。
- 導入しない医療機関に生じる具体的な制約
- 初期費用だけでなく、保守・更新・セキュリティーを含む費用負担
- 補助終了後に医療機関が負担する金額
- 既存システムを使い続ける場合の接続方法
- 廃業や承継時のデータ移行方法と費用
制度への賛否を問う前に、選択に必要な条件を可視化することが先です。
4. 導入費より見落とされやすい継続費用
電子カルテの価格を「導入費」だけで比べると、本当の負担を見誤ります。
導入後に続くのは、月額利用料、保守料、通信回線、バックアップ、セキュリティー対策、認証機器、端末更新、OSやソフトウェアの更新、障害時の支援契約、スタッフ教育です。 予約、レセプト、画像、歯周検査、口腔内写真、口腔内スキャナー、技工指示へ連携を広げれば、便利になる半面、管理する接続点も増加します。
クラウド化や標準化で、一部の機器費や管理費が下がる余地はあるでしょう。 ただし、データ量、接続先、セキュリティー要件、認証機器はいずれも増加傾向です。 維持費が自然に下がる前提ではなく、総費用が増える場合も含めて見積もるのが現実的です。
もう一つの問題は、ベンダーの料金と診療報酬が連動していないことです。 月額のサブスクリプション料金や保守料が値上げされても、初診料、再診料、医療DXに関する加算が直ちに増えるわけではありません。 診療報酬は国が定める要件に基づくものであり、医療機関がベンダーの価格上昇を患者や保険者へ自由に転嫁することもできません。
比較すべきは初期費用ではなく、少なくとも数年間の総保有費用です。 補助金がある初年度だけを切り取れば、診療所が長期に負う固定費は見えません。
5. 歯科では数秒の遅れが処置時間に影響する
歯科電子カルテの仕様は、歯科の診療動線を前提に設計されなければなりません。
内科系の診療所では、医師が一つの診察室で患者を順番に診る運用が多く見られます。 診療科や施設による違いはあるものの、一人の患者について診察と記録を行い、次の患者へ進む一列の流れを組みやすい診療形態です。
歯科の時間軸は異なります。 一つの時間枠で、歯科医師が複数の患者に並行して関与する場面が珍しくありません。 予定患者を処置しながら、別のユニットで抜歯後の抜糸や消毒を行う。 歯科衛生士が担当するメンテナンス患者の口腔内を確認し、その間に急患の応急処置へ入る。 関与が短時間でも、患者ごとに確認とカルテ記載が発生します。
そこで繰り返されるのが、次の「数秒」です。
- ログインや生体認証を待つ
- 患者を選び直す
- カルテ、画像、歯周検査の画面を切り替える
- 電子署名や多要素認証を行う
- 別のユニットへ移動し、同じ情報を開き直す
- 中断した入力箇所を探して再開する
指紋認証などの生体認証も、すべての電子カルテに義務付けられた機能ではありません。 ただし、採用製品が生体認証や多要素認証を求めるなら、評価対象は認証処理の速度だけでは足りません。 手袋の着脱、認証エラー、画面表示の待ち時間まで含めた実測が必要です。
歯科診療は、観察と会話だけでなく、切削、抜歯、縫合、根管治療、印象採得などの処置が中心です。 電子カルテ用の端末が、画像サーバーにつながった各ユニット横のPCと同じとは限りません。 一回なら数秒でも、同じ時間枠で患者ごとに積み重なれば、失われるのは処置時間や患者への説明時間です。
したがって、実証で一回の入力時間だけを測っても意味がありません。 一診療枠の患者数、認証回数、ユニット間の移動、画面切替、中断後の再開、時間外の記録作業。 これらを一連の診療動線として計測すべきです。
6. 電子カルテを入れても問診と薬剤確認は残る
現在でも、オンライン資格確認を利用し、患者の同意が得られれば、薬剤情報、診療情報、特定健診情報などを確認できます。 つまり、電子カルテがなければ何も見えないわけではありません。 レセプトコンピュータ側から一定の情報を参照できる医療機関もあります。
ただし、表示される情報だけで服薬状況の確認が完結するわけではありません。 第一の限界は、レセプト由来の情報に請求から表示までの時間差があることです。 電子処方箋に登録された情報は比較的新しい処方を確認できる場合がありますが、自費診療での処方、市販薬、サプリメント、実際には服用を中止した薬、患者が指示どおり服用しているかまでは網羅できません。
厚生労働省も、薬剤情報を閲覧できる場合であっても、患者への聞き取りやお薬手帳などによる確認を引き続き行うよう示しています。4 電子カルテを導入しても、問診やお薬手帳の確認は残ります。
第二の論点は、電子処方箋に伴う認証操作です。 院内で署名する方式では、HPKIカードの読み取りと暗証番号の入力が必要です。 一方、リモート署名では、構成によって一日一回の認証やスマートフォンの生体認証などを利用できる場合があります。5 方式によって負担の形は異なります。 それでも、認証エラー、カード管理、パスワード入力、端末間の移動が診療動線に加わる可能性は残ります。
なお、現在の診療報酬請求は月単位でまとめ、原則として翌月10日までに行う仕組みです。6 過去には日次・週次の請求も検討されましたが、医療機関の負担や請求ルール上の課題が指摘され、現行制度として採用されたわけではありません。7 医療DXで検討される「共通算定モジュール」による日々の点数計算と、審査支払機関への逐次請求は別の話です。8
将来、逐次に近い情報登録や請求が制度化されれば、情報の時間差が短くなる可能性はあります。 しかし、2026年7月31日時点で、すべての診療報酬を逐次請求へ移行する時期や確定した制度は確認できません。
7. 歯式と問診票の再入力を本当に減らせるか
医療DXを掲げるなら、紙を画面へ置き換えるだけでは不十分です。 価値が生まれるのは、患者、受付、歯科衛生士、歯科医師による同じ情報の再入力が減ったときです。
理想的な例が、歯式の差分確認です。 他院で記録された過去の歯式を、患者の同意後に構造化データとして取り込み、現在の口腔内との差異だけを確認する。 これなら診療所側の負担を大きく減らせます。 ただし、現時点で、マイナンバーカードを受付で読み取るだけで過去の歯式が自動取得され、差分確認だけで済む全国共通の仕組みは確認できません。
厚生労働省の歯科情報連携に関する検討では、傷病名、歯科診療録、歯周組織検査、補綴物・修復物、紹介状、患者サマリーなどが共有候補として挙げられています。 一方、FHIRを用いた具体的な入出力仕様などは、なお検討事項です。9
実用的な歯式連携には、少なくとも次の条件が必要です。
- 乳歯と永久歯、欠損、残根、埋伏歯、インプラントを区別できる
- 補綴物や修復物の種類と部位を構造化して扱える
- 情報の作成医療機関と作成日が分かる
- 過去と現在の差異を自動で示せる
- 外部情報と、自院で確認済みの記録を明確に区別できる
- 歯科医師が確認・修正した履歴を残せる
- 外部データが自院の確定記録を自動で上書きしない
問診票にも同じ発想が必要です。 全国共通の基本項目を構造化し、医院やメーカーごとの独自項目を追加できる形なら、患者が入力した共通部分を電子カルテへ連携できます。 厚生労働省の標準型電子カルテの検討には、患者がWEB問診へ入力した情報を電子カルテへ連携する考え方や、FHIRによる標準的な問診票テンプレートの検討があります。10 ただし、全国共通の歯科問診票がすでに実用化されているわけではありません。
また、患者が入力した内容を無確認で確定登録するのは危険です。 患者申告の暫定情報として取り込み、歯科医師またはスタッフが確認した時点で確定し、修正履歴を残す仕組みが適切です。 次回来院時も全項目を書き直させず、変更点だけを確認する。 再入力をなくす設計とは、こうしたものです。
8. 共有されたレントゲン画像は診療に使えるか
歯科の情報共有で、もっとも慎重な検討が必要なのが画像です。 「画像を共有できること」と「診断や経過比較に使えること」は同じではありません。
2026年6月公表の「電子カルテ情報共有サービスの導入に関するシステムベンダ向け技術解説書」2.1.0版では、キー画像を、DICOM形式の生データではなく、PNG、JPEG、TIFFへ圧縮または変換したデータと定義しています。 診療情報提供書などに添付できる形式は、キー画像がPNG、JPEG、TIFF、検査レポートなどがPDFです。
容量と件数には、次の上限が示されています。
- 文書本体:1文書当たり6MBまで
- 添付情報:1文書当たり最大20ファイル
- 添付情報の全量:1文書当たり10MBまで
- 登録要求ファイル:文書情報6MB、添付情報10MBまで
つまり、現行の技術文書が想定するキー画像はDICOM原画像ではなく、添付画像全体も1文書当たり10MB以内です。11 なお、同技術解説書は内容が最終確定したものではなく、モデル事業の検証を踏まえて次版で見直す予定と明記されています。
JPEGだから直ちに意味がないわけではありません。 問題は、圧縮率、画素数、階調、トリミング、表示条件です。 設定次第では、微細な透過像、歯根膜腔、根尖部、骨梁の評価に必要な情報が失われます。 参照画像と診断用の原画像は、明確に区別しなければなりません。
将来DICOMを扱う場合も、ファイルを送れれば終わりではありません。 ベンダー側で詰めるべき論点は次のとおりです。
- 各メーカーのプライベートタグなど独自要素をどこまで扱えるか
- 撮影後に加えた濃度、コントラスト、シャープネス等の表示条件を再現できるか
- VOI LUTやプレゼンテーションステートなどの情報が引き継がれるか
- 原画像と、加工後の表示画像を区別できるか
- 撮影日、撮影部位、歯式、左右、装置情報が正しく保持されるか
- 自院の画像サーバーへ安全に取り込めるか
- 他院撮影画像であることを、自院撮影分と明確に区別できるか
- 取り込みや加工の履歴を監査できるか
画像を自院の画像サーバーへ取り込めないと、各ユニット横の画像用PCでは他院画像を見られません。 確認のたびに電子カルテ端末へ移動し、自院撮影分との並列比較もできない。 この状態では、経時的な変化を読む用途での実用性は大きく落ちます。
さらに、診療報酬との関係も慎重に設計すべきです。 たとえば、他院で前週に撮影された画像が共有されていても、圧縮や表示環境の問題で診断に耐えない場合があります。 それでも「画像が共有されているから」という理由だけで自院での再撮影と算定が認められなければ、必要な情報を得られないまま診療するか、医療機関の持ち出しで撮影することになりかねません。 情報不足のまま診療を強いられれば、最終的に不利益を受けるのは患者です。
もちろん、不要な再撮影は被ばくと医療費を増やします。 必要なのは再撮影の一律禁止ではなく、共有画像が診断に使用できるかを歯科医師が判断し、必要なら再撮影の理由を記録できるルールです。 現行の歯科診療報酬には、他の保険医療機関で撮影した画像を診断した場合の評価がありますが、画像が共有されているだけで再撮影を一律に禁止する規定は確認できません。12
9. システム障害時にも診療を続けられるか
紙のカルテにも、紛失、災害、判読性という弱点があります。 電子化による検索性、複製性、遠隔バックアップは明確な利点です。
ただし、電子カルテ、認証基盤、通信回線、クラウド、画像サーバーのどれか一つが止まっただけで、患者情報の閲覧、処方、画像比較、会計が連鎖的に止まることがあります。 厚生労働省も、サイバー攻撃によって電子カルテが暗号化され、診療を一時停止した事例を踏まえ、事業継続計画の重要性を示しています。13
小規模診療所でも、少なくとも次の準備が必要です。
- 障害中に確認できる最低限の患者情報
- 紙などによる暫定記録の方法
- 復旧後に暫定記録を転記・照合する手順
- 回線障害に備えた代替接続
- 予備端末、無停電電源装置、端末交換の手順
- オフラインまたは別系統を含むバックアップ
- ベンダーの緊急連絡先と対応時間
- 定期的な訓練とスタッフ教育
- ランサムウェアを想定した復旧確認
これらは、導入時に一度用意すれば終わるものではありません。 端末やOSの更新、データ量の増加、セキュリティー要件の変更、接続先の追加に応じて見直しが必要です。
将来、一部の費用が下がる可能性を否定する必要はありません。 それでも、診療継続と安全性を維持するための総費用が自然に減ると期待するのは危険です。 システム障害時の診療継続を求めるほど、予備、バックアップ、訓練、保守という平時の費用は厚くなります。
10. 標準化と相互運用性で確認すべきこと
標準化の目的は、すべての診療所に同じ画面や同じ製品を使わせることではありません。 異なる製品でも、必要な情報を失わず、安全に受け渡せるようにすることです。
FHIRとは何か
異なる電子カルテや医療サービスの間で情報を交換する規格の一つが、**FHIR(ファイア:Fast Healthcare Interoperability Resources)**です。
FHIRは、患者基本情報、薬剤、検査結果などを、Patient、Medication、Observationといった共通のデータ単位で表現します。14
FHIRとDICOMは、同じ役割の規格ではありません。
| 規格 | 主な役割 | 歯科で想定される利用例 |
|---|---|---|
| FHIR | 患者情報、薬剤、検査結果、処置などの構造化データを交換する | 患者基本情報、薬剤・アレルギー情報、歯式や処置情報、画像の所在や取得先を共有する |
| DICOM | 医用画像と撮影条件などの付随情報を保存・交換する | デンタルX線、パノラマX線、CTなどを画像サーバーで保存し、表示・比較する |
FHIRのImagingStudyはDICOM画像の検査情報や取得方法を表せますが、DICOM画像本体を格納する仕組みではありません。
実際の画像を利用するには、DICOMサーバーなど別の保存・取得手段が必要です。15
したがって、「FHIR対応」は、歯式の自動取り込みやレントゲン画像の実用的な比較まで保証する言葉ではありません。 歯番、歯面、欠損、補綴物をどのコードで表すか、DICOM画像を既存の画像サーバーへ取り込めるかまで仕様を確認する必要があります。
相互運用性の対象は、レセプトコンピュータだけではありません。 歯科特有の周辺システムまで含める必要があります。
- 画像サーバー
- 口腔内カメラ
- 歯周検査システム
- 予約・受付システム
- 口腔内スキャナー
- CAD/CAM
- 技工指示・技工所との連携
- 電子処方箋
- オンライン資格確認
製品を変更するときに全データを取り出せなければ、診療所は特定ベンダーから離れられません。 契約前に、歯式、診療記録、歯周検査、画像、添付文書、署名、同意、監査ログを、どの形式で、いくらで、どの期間内に出力できるかを確認すべきです。
共有情報には、作成者、作成日時、更新履歴、情報源が必要です。 他院情報、患者申告、自院で確認した情報を同じ見た目で表示すれば、古い情報や誤入力を自院の確認済み情報と誤認しかねません。 未成年者や代理人による同意、閲覧権限、訂正、閲覧履歴についても、現場で迷わない画面設計が求められます。
11. ベンダーの付加価値とAI活用を支えるデータ設計
電子カルテの使いやすさや付加機能は、ベンダーの開発力に左右されます。 ただし、ベンダーへ「工夫してください」と求めるだけでは価値は生まれません。 利用できるデータの種類が少ない、画像やPDFとしてしか取得できない、外部機能から読み書きできる標準APIがない、利用条件が不明確である。 こうした制約が重なれば、開発力があっても再入力を減らす機能や、歯科に特化した支援機能は作りにくくなります。
たとえば、歯式を画面上で閲覧できても、歯単位、歯面単位、処置単位の構造化データとして取得できなければ、現在との差分表示は困難です。 レントゲン画像がJPEGで表示されるだけなら、画像サーバーへの取り込み、過去画像との位置合わせ、画質条件をそろえた比較には使えません。 問診結果がPDFで届くだけなら、薬剤名、アレルギー、既往歴を該当欄へ転記する作業が残ります。
つまり、電子カルテの付加価値は画面の作り込みだけで決まるものではありません。 標準化されたデータへ、必要な権限の範囲で安全にアクセスし、処理結果を適切に戻せるかが土台になります。
一方、「ベンダーが利用できるようにすること」を「患者データを自由に持ち出せるようにすること」と読み替えるわけにはいきません。 診療目的の利用、診療所内の業務改善、外部サービスへの処理委託、製品開発、AIモデルの学習、医学研究は、それぞれ目的と法的な扱いが異なります。 医療情報は要配慮個人情報を含むため、利用目的の特定、患者への説明、委託先の監督、安全管理、第三者提供の管理が必要です。16
経済産業省の医療情報システム提供事業者向けガイドラインも、医療機関と事業者の責任分界、合意内容、リスクコミュニケーションを明確にするよう求めています。17 この考え方はAI機能にも当てはまります。 「クラウドだから事業者任せ」「診療所が契約したから何にでも使える」という整理では不十分です。
AI音声入力が変え得る診療時間
人手不足が続く日本では、診療記録、問診整理、紹介状作成などの事務作業をAIで補助する必要性が高まるでしょう。 とくに期待されるのが音声を使った記録支援です。
ここでは、二つの方式を分けて考える必要があります。
- 音声認識入力:歯科医師やスタッフが記録内容を読み上げ、文字へ変換する
- アンビエント型記録支援:患者と医療者の会話を認識し、診療記録の下書きを生成する
後者が安全に機能すれば、歯科医師が処置後に会話を思い出して手入力する時間を短縮し、診療中は患者の表情や反応へ注意を向けやすくなります。 海外の実臨床研究では、アンビエントAIの利用により、記録時間の短縮と患者への視線時間の増加が関連していたとの報告があります。18 別の多診療科の試行でも記録時間の短縮が示された一方、効果には利用者差があり、かえって時間が増えた医師もいました。19
この結果を、そのまま日本の歯科診療へ当てはめることはできません。 歯科では、マスク越しの発話、吸引音、切削音、患者が発話できない処置時間、歯式や材料名の略語、歯科医師と歯科衛生士の会話が混在します。 口腔内を指して「ここ」「右上」と話しただけでは、音声から正確な歯番や歯面を特定できない場面もあります。
だからといって、AI活用を最初から閉ざすのも適切ではありません。 手入力に長い時間を費やせば、その時間は患者への説明、処置、スタッフ教育、休息のいずれかから差し引かれます。 記録支援で生まれた時間が患者へ還元されるなら、AIは単なる事務効率化ではなく、診療の質を支える可能性があります。 ただし、その効果は「AIを導入したか」ではなく、次の指標で確かめるべきです。
- 一診療枠当たりの記録時間と終業後の記録時間
- 患者へ説明できた時間
- 処置中に画面へ視線を移した回数
- 下書きの修正時間と修正箇所数
- 歯番、歯面、薬剤名、処置名の誤認識率
- 重要事項の欠落と、実際には話していない内容の混入
- 歯科医師が確定するまでの時間
- 患者が録音やAI利用を望まない場合の代替動線
AIが作るのは、あくまで診療録の下書きです。 入力者と確定者を識別し、歯科医師が内容を確認して確定し、生成前後の変更履歴を残す必要があります。 電子カルテに求められる真正性、見読性、保存性を、AIの出力だけで代替することはできません。
個人情報保護とAI活用を対立させない
安全性を理由にデータ利用を全面的に閉じれば、漏えいリスクの一部は下げられるかもしれません。 しかし、診療に必要な連携まで止めれば、転記、見落とし、診療後の事務作業が増えます。 反対に、AI活用を優先して用途を限定せず外部へ送信すれば、目的外利用、モデル学習への流用、再識別、国外移転、委託先からの漏えいといったリスクが生じます。
必要なのは、保護か活用かの二者択一ではなく、利用目的ごとにデータと権限を分ける設計です。 AI事業者向けの政府ガイドラインも、人間中心、安全性、公平性、プライバシー保護、セキュリティー、透明性、アカウンタビリティーなどを共通の指針として示しています。20
歯科電子カルテとAIの接続には、少なくとも次の条件が必要です。
- AIへ渡すデータを、機能ごとに必要最小限へ限定する
- 診療支援とモデル学習を分け、学習への利用可否を契約と画面で確認できる
- 患者への説明内容、同意または拒否、同意撤回を記録できる
- 録音データ、中間生成物、確定後の下書きの保存期間と削除方法を定める
- データの保存場所、再委託先、国外移転の有無を確認できる
- 通信と保存データを暗号化し、アクセス権限と監査ログを管理する
- AI出力であること、使用した情報源、生成時刻、モデルの版を追跡できる
- AIが停止しても手入力へ戻れる
- ベンダー変更時に、自院の診療データを標準形式で取り出せる
- 誤生成や事故を医療機関とベンダーが共有し、修正へ反映できる
この設計なら、すべてのデータを無制限に開放せず、診療に必要なAI機能へ必要な範囲だけ提供できます。 匿名加工や仮名加工も選択肢になりますが、診療中の個別患者を支援する用途と、研究やモデル改善に利用する用途は分けなければなりません。 仮名化しただけで、自由な外部利用が可能になるわけでもありません。
日本の医療が世界から取り残されるかどうかを、AI製品の導入数だけで判断することはできません。 判断材料となるのは、患者の権利を守りながら、診療時間、記録精度、医療者の負担、患者との対話をどこまで改善できたかです。 過度に閉じた仕様は開発競争を止め、過度に開いた仕様は患者の信頼を失う。 電子カルテの標準仕様には、その間を安全に通るためのAPI、権限管理、同意管理、監査、データ持ち出しの仕組みが必要です。
12. 普及率ではなく、小規模歯科診療所の実益を測る
電子カルテの普及を導入施設数だけで評価すると、現場の負担を見落とします。
小規模歯科診療所にとっての実益は、概念的には次の差です。
情報検索・転記・紹介・確認で減った時間と費用
- 認証・入力・保守・教育・障害対応で増えた時間と費用
実証事業やアンケートでは、少なくとも次の項目を測るべきです。
- 導入後数年間の総保有費用
- 一患者当たりではなく、一診療枠当たりの入力・認証時間
- 二重入力が減った項目と、逆に増えた項目
- 終業後のカルテ記載時間
- 障害の回数、継続時間、診療への影響
- 他院の歯式や画像を実際に診療へ利用できた割合
- 問診やお薬手帳の確認に残った時間
- ベンダー変更時のデータ移行可能性
- 患者への説明時間や処置時間への影響
歯科医師が感じる臨床上の問題を、ベンダーが実装要件へ翻訳できるかも重要です。
| 臨床現場の問題 | システム側で求められる対応 | 実証で見る指標 |
|---|---|---|
| 複数患者を並行して診る | 患者切替と再認証を安全かつ短時間にする | 一診療枠の認証・切替時間 |
| ユニットごとに画像を見る | 画像サーバーとの双方向連携、外部画像の識別 | 並列比較できた画像の割合 |
| 歯式と問診を再入力する | 標準項目と施設独自項目の構造化、差分表示 | 再入力項目数、確認時間 |
| 障害中に診療情報を見られない | 最低限情報の退避、縮退運転、復旧後の整合 | 停止時間、復旧時間、未照合件数 |
| ベンダーを変更できない | 標準形式での一括出力、移行仕様と費用の明示 | 移行できたデータ種別と費用 |
| AIで記録を支援したい | 権限付きAPI、下書きと確定記録の分離、監査ログ | 記録時間、修正率、重大な欠落や誤生成 |
電子カルテの利点を否定する必要はありません。 過去の歯式が構造化され、現在との差分だけを確認できる。 全国共通の問診項目が患者の入力から暫定登録され、診療所は確認と修正だけで済む。 他院画像をユニット横の画像端末で、自院画像と並べて診断できる。 ここまで実現して初めて、歯科診療所にも明確な利益が生まれます。
逆に、紙や既存システムに入力していた内容を、別の端末へもう一度入力するだけなら、DXではなく作業の追加です。 普及策は「導入してください」から始めるのではなく、「導入すればこの作業がなくなります」と示せる仕様から始めるべきです。
13. アンケート調査の問い合わせ先について
今回のアンケート調査の問い合わせ先として記載されている株式会社NTTデータ経営研究所は、株式会社NTTデータが100%出資する調査・コンサルティング会社です。 1991年に設立され、行政、公共政策、医療、情報通信などの調査研究やコンサルティングを手掛けています。21
同社のライフ・バリュー・クリエイションユニットは、医療、健康、介護、福祉などを主な領域とし、厚生労働省による歯科口腔保健関連の調査事業にも実績があります。22
今回の位置づけは、厚生労働省医政局歯科保健課から委託を受けた事業者、すなわち調査の実施や事務局運営を担う立場です。 政策を最終決定する主体は厚生労働省であり、委託事業者は調査実務の窓口です。 委託事業者が将来の歯科電子カルテを開発・運営すると決まっているわけではありません。 回答や問い合わせでは、調査実務の窓口と政策決定主体を区別しておくと、要望の宛先を誤りません。
14. おわりに
歯科電子カルテには、情報共有、検索性、紹介時の連携、災害時の復旧といった利点があります。 ただし、小規模歯科診療所にとって重要なのは、可能性ではなく、日々の診療で利益が現れるかどうかです。
歯科では、同じ時間枠で複数患者に関与し、処置の合間に確認と記録を繰り返します。 数秒の認証や表示待ちは、積み重なれば処置時間を削る。 薬剤情報が見えても、問診とお薬手帳の確認は残る。 画像が届いても、自院の画像サーバーで比較できず、診断に必要な画質がなければ使えない。 そして障害時の診療を守るには、予備、バックアップ、訓練、保守という継続費用がかかります。
さらに、ベンダーが歯科に合った機能を作ろうとしても、構造化データへ安全に接続できなければ付加価値には限界があります。 AIによる記録支援も同じです。 個人情報保護を弱めることなく、必要なデータを必要な目的に限って使い、AIの下書きを歯科医師が確定できる設計が欠かせません。
現在、医療機関に電子カルテ導入の法的義務はありません。 だからこそ今後の制度設計では、名目上の任意だけでなく、非導入による実質的な不利益、費用負担、診療報酬との関係を透明に示す必要があります。
判断基準は普及率ではありません。 歯科診療所の再入力が減ったか。 患者に向き合う時間が増えたか。 必要な画像と情報を診療の場で使えたか。 障害時にも安全に診療を続けられたか。
小規模歯科診療所で、これらの利益が負担を上回る仕組みになっているか。 システムベンダーにも制度設計者にも、最終的に問われるのはこの一点です。
医療DXは、制度やシステムを導入すること自体が目的ではありません。 患者へ向き合う時間が増え、収益を圧迫せず、診療の安全性と継続性が高まって初めて、現場にとって意味のある仕組みになります。
参考文献
- 厚生労働省「令和8年7月21日付大臣会見概要」
https://www.mhlw.go.jp/stf/kaiken/daijin/0000194708_00953.html - 全国保険医団体連合会「電子カルテ義務化に危惧 地域医療を守るため法案の撤回を」
https://hodanren.doc-net.or.jp/info/news/2025-11-19-2/ - 厚生労働省「オンライン資格確認の導入について」
https://www.mhlw.go.jp/stf/newpage_08280.html - 厚生労働省「オンライン資格確認等システムによる薬剤情報等の閲覧に関する取扱い」
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執筆・監修情報
執筆・監修 中村 瞬
かわせみデンタルクリニック 院長 / 歯学博士(歯科麻酔学)/ 日本歯科麻酔科学会 認定医
医療記事をほぼ毎日更新中・TV取材多数
医学的根拠(エビデンス)に基づいた正確で分かりやすい情報を患者目線でお届けしています。
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