歯科における差額徴収制度の歴史と背景 – 歯科診療報酬が低い理由
主要な結論:
日本の歯科保険診療における差額徴収制度は、1961年の国民皆保険導入時に歯科医療費の抑制と歯科医会の収益確保を目的として創設されましたが、二重徴収の乱用が社会問題化し、1976年に廃止されています。その後も低い診療報酬は据え置かれ、現在に至るまで保険と自費のダブルスタンダードが続いています。
国民医療費に占める歯科診療医療費の割合

1. 制度の成立背景
1961年(昭和36年)の国民皆保険制度導入時、歯科治療は手間と高コストを要するため、そのまま保険適用とすると医療費が膨張すると懸念されていました。そこで旧厚生省は「差額徴収制度」を提案し、歯科補綴(たとえば金合金クラウン)を自費診療として行う場合、
- 保険給付材料費(銀歯相当)を国に請求
- 患者には材料費の差額を自費で徴収
という仕組みを認めました。
この仕組みにより、政府は診療報酬を低水準に抑制しつつ、歯科医師会は自費診療への誘導で収益を確保できるとの「両者の思惑一致」が成立しました。
1960年(国民皆保険制度導入の前年) 『補綴の差額徴集』についての記事

| 補綴の差額徴集 “保険診療というものが、制限診療であり、規格診療であるということは百も承知である。だから、被保険者は、これを「三等診療」と唱えて、十分な診療は受けれられないと根本的にあきらめてかかつていることも事実である。” “われわれの望む報酬とは、かなりの距りがあるとしても、制度の上から、無限の医療と、有限の経済のために、時到るまで、我慢するとしても、何としても我慢出来ぬのは、歯科医療の特異性の第一である補綴の報酬である” ”おもちゃを作るような報酬で、第二の創造主的な、貴重な補綴物を被保険者に奉仕しているのである” “補綴物はただ、金だけによつて左右されるものではない。進歩した補綴学を学んでも、それを施すことも出来ないし、技術の差も、材料の差も十把一からげの均一売り場で、形さえあればそれでいいといつた調子である” “補綴全体の5割の値上げの要求と、速やかに差額徴集制度の実施を力強く要求する” |
2. 制度乱用と社会問題化
導入当初から、歯科医師の中には
- 保険分を国に請求しながら、患者から全額を徴収
- 保険診療の技術料まで上乗せして二重徴収
といった悪質事例が多発し、新聞報道を通じて国民の強い批判を招きました。70年代前半には、日本歯科医師会が各県歯科医師会に「保険点数の2〜3割を余分に取るように」と公式文書で指示していたことも明らかになり、社会的批判は頂点に達します。
3. 制度廃止とその後の展開
国民の怒りを受けて、1976年(昭和51年)3月に中医協は「歯科差額徴収は材料費に限定する」との答申を行い、同年8月に差額徴収制度は全面廃止されました。(通称:51年通知)
しかし、診療報酬自体は欧米の約1/10の低水準に据え置かれたままであったため、歯科医師は限られた保険点数内で利益を確保せざるを得ず、患者数を増やし回転率を上げることで対応、結果として治療の質が低下してしまったと指摘されています。
4. 廃止後の混合診療と二本立て体制
差額徴収制度廃止後も、
- 1978年:材料差額の限定的導入
- 1984年:特定療養費制度開始
などの改正を経て、現在は保険診療と自費診療の混合診療が法的に容認される体制が続いています。
この結果、保険診療の低報酬下での自費誘導や、医療機関ごとの価格差が拡大し、再び社会的な課題として議論されています。
1978年『治したのに…また 虫歯 低質の治療が原因説 患者の大半、いやーな経験』の記事

| 一部内容を抜粋 歯界展望 昭和53年(1978年)8月号掲載の内容についての記載 ・広島市の歯科診療所 昭和47年12月から翌年6月 326名調査 初診時に、かつて治療を受けていた人の90%以上が要再治療 ・新たに治療した歯の数と再治療した歯の数はほぼ等しかった ・再治療に要した時間は新治療に要した時間の約3.5倍だった ・歯科医がもし9時間働いたとすると、そのうち7時間までは再治療しているという計算 大阪デンタル・リサーチ・グループ 昭和51年 約1500人に対して同じような調査 ・二次う蝕の割合は58% ・質の低い治療を受けた歯は全診療歯数の80% 精度の高い治療を正則治療というが、それが実行できない理由としてほとんどの歯科医は保健医療報酬の安さをあげる 東京医科歯科大学の教授「このデータだけで日本の歯科医療がデタラメだと結論するのは大きな誤りだ。精度の高い正則治療はできなくとも、とりあえず多数の患者を一応カバーし、それなりに健康に大いに役立っていることは明らかだ。今すぐ、全歯科医院に正則治療を要求することには問題がある。歯科医の数、保険報酬額も考える必要があろう。保険制度の改革を含めて、年月をかけて正則治療に移していくしかないだろう」 |
おわりに
歯科保険診療における差額徴収制度は、国民皆保険維持のための苦肉の策として生まれたが、乱用による社会的混乱を招き1976年に廃止されました。その後も低い保険報酬は改善されず、歯科医療は保険と自費の二重基準を維持したまま現在に至っています。今後の課題として、歯科診療報酬の適正化と明瞭な混合診療ルールの再構築が求められています。
参考文献
政府・公的機関資料
- 厚生労働省「保険診療の理解のために(歯科)」
https://kouseikyoku.mhlw.go.jp/hokkaido/documents/shika28.pdf - 厚生白書(昭和51年版)医療保険制度の改善(歯科差額徴収廃止の経緯)
https://www.mhlw.go.jp/toukei_hakusho/hakusho/kousei/1976/dl/08.pdf - 日本医師会「昭和51年-歯科差額徴収問題」
https://www.med.or.jp/jma/about/50th/pdf/50th151.pdf - 日本歯科医師会「略年表(1976年歯科差額徴収診療全面廃止)」
https://www.jda.or.jp/jda/about/history_2.html
歯科医療費国際比較・学術文献
- 東京医科歯科大学大学院医療経済学分野「日本の歯科診療報酬と国際比較」
https://www.tmd.ac.jp/grad/hce/health-care-economics.html - 「歯科口腔保健の評価方法・評価指標のレビュー2 国際比較からみた日本の歯科医療」
https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/report_pdf/%E7%B7%8F%E6%8B%AC%EF%BC%9A202009009A-buntan2_0.pdf - 「国際比較から見た日本の歯科医療の姿」(日本・アメリカ・ドイツ・スウェーデン医療費比較)
https://www.chiyoda1st.com/image/shikairyo.pdf - 日本医師会「日本と諸外国の医療水準と医療費」
https://www.med.or.jp/people/info/kaifo/compare/
学術論文・研究報告
- “Comprehensive Assessment of the Universal Healthcare System in Dentistry Japan”(2022)
https://www.mdpi.com/2227-9032/10/11/2173/pdf?version=1667121556 - “Global Neglect of Dental Coverage in Universal Health Coverage Systems and Japan’s Broad Coverage”(2021)
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9275350/ - “Trends in dental expenditures in Japan with a universal health insurance system”(2023)
https://dx.plos.org/10.1371/journal.pone.0292547 - “Japan’s Dental Care under Universal Health Coverage and Challenges from Population Ageing”(2021)
https://www.preprints.org/manuscript/202107.0406/v1/download - “Income-Related Inequalities in Access to Dental Care Services in Japan”(2017)
https://www.mdpi.com/1660-4601/14/5/524/pdf?version=1494596844 - 日本学術会議「新たな歯科医療制度を考えるⅡ」(2011)
https://www.scj.go.jp/ja/event/houkoku/pdf/110725-houkoku2.pdf
医療制度・政策分析資料
- 保険医協会「再生と矜持、盤石な国民の口腔保健をめざす 歯科医療の政策提言」
https://www.hoken-i.co.jp/outline/h/post_447.html - 歯科政策研究会 宇佐美宏講演録「国民と医療者が手を携え運動を」(差額徴収制度の歴史的経緯)
http://www.hhk.jp/hyogo-hokeni-shinbun/backnumber/2020/0805/100003.php - 「保険給付と保険外負担の現状と展望に関する研究報告書」(医科における差額徴収制度の詳細)
https://www.jmari.med.or.jp/download/RP015.pdf
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この記事の監修者
中村 瞬
かわせみデンタルクリニック 院長 / 歯学博士(歯科麻酔学)/ 日本歯科麻酔科学会 認定医
医療記事をほぼ毎日更新中・TV取材多数
医学的根拠(エビデンス)に基づいた正確で分かりやすい情報を患者目線でお届けしています。
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