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職場の「なんとなく重い」空気の正体 ── 無礼さが医療現場のパフォーマンスと患者安全を蝕むメカニズム

ため息・無視・冷たい一言。職場の小さな無礼さが認知資源を奪い、医療ミスを招くまでのメカニズムを、最新の研究データとともに解説します。

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目次

  1. はじめに ── 「あの一言」が積み重なると何が起きるか
  2. 「無礼さ」とは何か:定義と種類
  3. なぜ無礼さはパフォーマンスを下げるのか
  4. 無礼さは連鎖する ── スパイラル理論
  5. 医療現場での実態 ── 患者安全への直結
  6. 心理的安全性:逆からのアプローチ
  7. 改善に向けて ── スタッフ一人ひとりができること
  8. まとめ
  9. 参考文献

1. はじめに ── 「あの一言」が積み重なると何が起きるか

「おはようございます」と声をかけたのに、返事もなく視線を逸らされた。報告をしても「またそんなこと?」とため息をつかれた。ミーティングで発言しようとしたら話を遮られた。

こうした出来事は、ハラスメントや暴力とは呼べない「些細なこと」です。しかし、そのたびに心のどこかが重くなり、仕事に集中できなくなったり、「もう関わりたくない」という気持ちが芽生えたりした経験はないでしょうか。

この記事で取り上げるのは、そうした職場の「無礼さ(incivility)」が引き起こすメカニズムです。最新の研究が明らかにしたのは、無礼さが単に「気分が悪い」で終わらず、私たちの認知能力を奪い、チームのパフォーマンスを下げ、医療現場においては患者の安全にまで影響を及ぼすという事実です。

歯科医院・クリニック・病院で働くすべてのスタッフの方々に、この問題をより深く理解していただくために執筆しました。

2. 「無礼さ」とは何か:定義と種類

2-1. 定義

「無礼さ」という言葉を聞いて、何を思い浮かべますか?怒鳴る、叩く、侮辱する──そうした激しい行動を想像する方も多いかもしれません。しかし、研究者が定義する「職場の無礼さ(workplace incivility)」はもっと静かで、日常に潜んでいます。

組織行動学者の Andersson & Pearson(1999)は、職場の無礼さを次のように定義しています¹。

「職場の礼節規範に反する、低強度の逸脱行動であり、ターゲットを傷つける意図が明確ではないもの」

「低強度」「意図が不明確」──この二点が、無礼さの厄介なところです。明確な悪意が見えないため、被害を受けた側が「自分の気にしすぎかも」「そんなつもりじゃなかったのかも」と自分を疑いがちになります。

また Pearson & Porath(2005)は、「法律に違反しない行動でありながら、職場の規範を侵す態度」と表現しています²。

日常に潜む「無礼さ」の例

  • 挨拶を無視する・目を合わせない
  • ため息をついたり、視線を転じたりしながら話を聞く
  • 指示や返信を意図的に遅らせる・返さない
  • 会話中に話を遮る
  • 陰口・聞こえるような批判
  • 軽蔑的なトーンでの一言(「そんなことも知らないの?」など)

これらは一見「大したことない」ように思えますが、積み重なると深刻な影響を及ぼします。

2-2. ハラスメント・いじめとの違い

無礼さを理解する上で、より強度の高い概念との違いを整理しておくことが重要です。

概念強度意図性繰り返し違法性
無礼さ(Incivility)不明確単発〜散発なし
いじめ(Bullying)中〜高あり繰り返し状況次第
ハラスメント(Harassment)中〜高あり繰り返し法的に定義
職場暴力(Violence)あり単発でも成立あり

無礼さは「グレーゾーン」にある行動です。だからこそ、組織が気づきにくく、対処が遅れやすいという特徴があります。

3. なぜ無礼さはパフォーマンスを下げるのか

3-1. 認知資源が奪われる

無礼な扱いを受けると、私たちの頭の中では何が起きるのでしょうか。

Porath & Erez(2007)による実験では、無礼な扱いを受けたグループと受けていないグループを比較したところ、無礼な扱いを受けた参加者はアナグラム課題(文字を並び替えて単語を作る問題)の成績が有意に低下し、創造的な思考課題のパフォーマンスも落ちました。さらに、協力行動(困っている人を助けること)も著しく減少しました³。

なぜそうなるのか。人間の脳は「処理できる情報量(認知資源)」に上限があります。無礼な扱いを受けると、「あれはどういう意味だったんだろう」「なぜあんなことを言われたのか」という反芻(はんすう)思考が自動的に始まります。この思考が脳の処理能力を消費し、本来の仕事に使えるリソースが減ってしまうのです。

つまり、「気にしなければいい」という言葉は、脳の仕組みを無視したアドバイスです。無礼な扱いを受けた後、集中力が落ちるのは「心が弱いから」ではなく、神経科学的に避けられないことなのです。

3-2. 「見ているだけ」でも影響を受ける

さらに衝撃的なのは、無礼さの影響が「直接受けた人」だけにとどまらないことです。

Gilam et al.(2020)の研究では、無礼な場面を動画で「見ただけ」の参加者も、そうでない参加者と比べて語句パズル(アナグラム)の成績が有意に低下することが示されました⁴。無礼さを目撃するだけで、認知パフォーマンスが低下するのです。

Porath & Pearson(2013)のデータでも、無礼さを目撃した人の協力行動は51%から25%に半減したことが報告されています⁵。

これが意味するのは、職場の「空気の重さ」は思い込みではなく、科学的に測定可能な現象だということです。あなた自身が直接嫌なことを言われていなくても、チームに無礼さがあれば、あなたのパフォーマンスにも影響が出ています。

3-3. 数字で見る組織コスト

Porath & Pearson(2013)は、職場の無礼さを実際に経験した従業員への調査から、以下の数字を報告しています⁵。

行動割合
仕事への努力を意図的に減らした48%
仕事の質を意図的に下げた38%
職場でのコミットメントが低下した78%
パフォーマンスが低下したと回答66%
上司を避けるために仕事時間を使った63%
無礼さが原因で退職した12%
顧客に対してフラストレーションをぶつけた25%

また、無礼さが原因で不在・退職などが増加した場合、医療費コストが46%増加するという試算もあります(Pearson & Porath 2005²、APA調査データ)。

Pearson & Porath(2005)は、「スーパースター社員1人が組織内で常習的に無礼な行動をとる場合、失われる売上・退職コスト・生産性低下の合計は年間数百万ドルに達し得る」と試算しています²。

また、Porath & Pearson(2013)のデータでは、無礼さを目撃した顧客が企業への信頼感を維持した割合は、目撃なしの80%から20%へと激減することも示されています⁵。スタッフ間の無礼さが患者(顧客)の信頼を直撃するということです。

3-4. 改善は可能か

希望的なデータもあります。Pearson & Porath(2005)の調査によれば、職場の無礼さの問題に対して、適切な介入を行うことで約70%のケースで改善が見込めることが示されています²。つまり、「どうせ変わらない」と諦める必要はありません。問題を認識し、組織的に取り組むことで、職場環境は変えられます。

4. 無礼さは連鎖する ── スパイラル理論

4-1. スパイラル理論

無礼さの最も危険な性質の一つが、連鎖・拡大することです。

Andersson & Pearson(1999)は「インシビリティ・スパイラル(incivility spiral)」という概念を提唱しています¹。無礼な扱いを受けた人が、その経験に傷つき、別の誰か(または同じ相手)に無礼な行動を返す──その連鎖が続くことで、職場全体の無礼さが徐々に強度を増して広がっていく現象です。

論文タイトルの “Tit for Tat”(やられたらやり返す)という言葉が示すとおり、これは意図的な報復だけでなく、気づかないうちに自分も無礼の加害者になっていることを指します。「自分は被害者だから仕方ない」という意識が、スパイラルをさらに加速させます。

4-2. 感情的疲弊がスパイラルを加速させる

Loh & Saleh(2021)は、このスパイラル理論に「感情的疲弊(emotional exhaustion)」という変数を加えたモデルを検証しました⁶。

875名を対象にした構造方程式モデリング(SEM)分析の結果、感情的疲弊が高い状態にある人ほど、無礼さを受けた際に報復的な無礼な行動を取る可能性が高まることが示されました(β = −0.066, p < 0.01)。

忙しい、疲れている、ストレスが多い──そうした状況下では、誰でも報復的な無礼さに陥りやすくなるのです。「あの人はいつも感じが悪い」ではなく、「あの人は今、限界まで消耗しているのかもしれない」という視点が、スパイラルを断ち切る第一歩になります。

4-3. 「職場文化」として定着してしまう

スパイラルの最終形態として恐ろしいのは、職場の無礼さが「当たり前」として文化に埋め込まれてしまうことです。新しいスタッフが入ってきたとき、「ここではこれが普通なんだ」と学習してしまえば、無礼さは次世代に引き継がれます。

「昔からこういう職場だから」「みんなそうだから」という言葉が聞こえたら、スパイラルが文化として定着しているサインです。

5. 医療現場での実態 ── 患者安全への直結

5-1. 医療職はとくに高リスク

職場の無礼さはあらゆる業種に存在しますが、医療現場には特有のリスク要因があります。Parker et al.(2020)は医療現場での無礼さの引き金となる状況を系統的にまとめており、高い業務負荷(10研究で最多言及)、コミュニケーション・チームワークの問題(9研究)、患者安全への懸念、組織的制約、時間管理の葛藤などが上位に挙げられています⁷。

これらはいずれも、医療現場の日常そのものです。緊急対応、人手不足、複雑な患者状態──こうした状況が重なるとき、スタッフは認知的にも情緒的にも余裕がなくなり、無礼な言動が起きやすくなります。

5-2. 患者の安全に直結する

Lewis(2023)は医療現場における職種間の無礼さに関する系統的レビューをまとめています⁸。26,534名を対象とした13研究の分析から、以下の実態が浮かび上がりました。

無礼さの目撃率:

  • 医師による問題行動を目撃した:77%(うち看護師88%、医師51%)
  • 看護師による問題行動を目撃した:65%(うち看護師73%、医師48%)

患者への影響(回答者が関連すると評価した割合):

  • ケアの質の低下:72%
  • 医療ミスとの関連:70〜71%
  • 患者安全の損害:53%
  • 有害事象との関連:67%

さらに、シミュレーション研究では、無礼さにさらされなかった対照群の91.2%がクライシス対応で期待されるパフォーマンスを発揮した一方、無礼さにさらされたグループでは63.6%にとどまりました⁸。

「ため息一つ」「冷たい一言」が、処置の精度を下げ、ミスのリスクを高める──これが医療現場での無礼さの現実です。

6. 心理的安全性:逆からのアプローチ

ここまで無礼さの害を見てきましたが、逆から考えると、心理的安全性を高めることが無礼さの対極として機能することがわかります。

Hallam et al.(2023)は、医療現場における心理的安全性の構成要素を質的研究によって同定しました⁹。彼らが特定した8つの柱は以下の通りです。

#柱(Pillar)
1コミュニケーション(Communication)
2文化(Culture)
3リーダーシップ(Leadership)
4パフォーマンスフィードバック(Performance feedback)
5相互尊重(Respect)
6スタッフ育成(Staff development)
7チームワーク(Teamwork)
8信頼(Trust)

「相互尊重(Respect)」が明示的な柱として挙がっていることに注目してください。無礼さの撲滅は、心理的安全性構築の核心に位置するのです。

また、Edmondson et al.(2024)は、患者対応の医療従事者14,943人の縦断的調査データを用いて、心理的安全性が「安全上の問題を率直に報告し、改善につなげる行動(safety improvement)」と正の相関を持つことを実証しました¹⁰。さらに、チームが共同問題解決志向(joint problem-solving orientation; JPS)を持つ場合、その関係がさらに強まることも明らかにされています。

つまり、心理的安全性の高い職場では、スタッフはミスや懸念を声に出し、組織全体の安全が改善されます。一方、無礼さが蔓延している職場では、誰も「余計なことを言いたくない」という沈黙が生まれ、ヒヤリ・ハットが報告されず、問題が見えにくくなります。

7. 改善に向けて ── スタッフ一人ひとりができること

7-1. 一人ひとりができること

自分の「無礼さセンサー」を磨く

まずは、自分が無礼さを受けたとき、あるいは発してしまったときに気づく能力を高めることが出発点です。日々の業務の中で「今のは少し冷たかったかな」「あのため息は相手を傷つけたかも」と振り返る習慣を持ちましょう。

「受けた無礼さ」を持ち越さない工夫

無礼な扱いを受けた後は、別の作業に切り替える前にいったん立ち止まることが有効です。深呼吸、短い休憩、信頼できる同僚への一言(愚痴ではなく「ちょっとモヤモヤしてる」と伝えるだけでも)が、反芻思考のサイクルを断ち切る助けになります。

小さな「礼節の行動」を積み重ねる

挨拶を返す、目を見て話す、「ありがとう」を言葉にする──これらは誰にでもできる行動です。心理的安全性の8つの柱(尊重・信頼・コミュニケーション)の土台は、こうした日常の小さな行為の積み重ねです。

スパイラルを意識する

嫌なことがあった後、別の人に当たりたくなるのは自然な感情です。しかし、スパイラル理論を思い出してください。あなたが誰かに無礼な行動を取った瞬間、連鎖が始まります。「今の自分は消耗している」と認識するだけでも、スパイラルを一歩踏みとどまる力になります。

7-2. リーダー・管理職ができること

無礼さを「見えない問題」にしない

無礼さは意図が不明確なため、「大したことではない」と処理されがちです。しかし、48%のスタッフが意図的に努力を減らし、12%が退職しているデータを見れば、これが経営上の問題であることは明白です。定期的なスタッフミーティングや1on1の場で、「職場の空気」を話題にできる土壌を作りましょう。

ゼロ・トレランス・ポリシーとロールモデル

無礼さに対して「なんとなく許容している」文化は、スパイラルを加速させます。院長・主任・リーダー職が自ら礼節の模範を見せること、そして問題のある行動に対して速やかかつ穏やかにフィードバックすることが、文化を変える最大のレバーです。

感情的疲弊のサインを見逃さない

Loh & Saleh(2021)が示すように、感情的疲弊は無礼さの引き金です⁶。スタッフの疲労・バーンアウトのサインを見逃さず、業務量・シフト・サポート体制を見直すことも、無礼さ対策の重要な一環です。

心理的安全性の8つの柱を意識した職場づくり

Hallam et al.(2023)が示した8つの柱(コミュニケーション・文化・リーダーシップ・フィードバック・尊重・育成・チームワーク・信頼)を、組織の意思決定や日常業務の指針として活用してください⁹。特に「パフォーマンスフィードバック」と「スタッフ育成」は、スタッフが「自分は大切にされている」と感じるための重要なシグナルです。

8. まとめ

職場の「なんとなく重い」空気は、根拠のない思い込みではありません。研究データが示すのは以下の事実です。

  • 無礼な扱いを受けたスタッフの48%が意図的に努力を減らし、66%がパフォーマンスの低下を報告する⁵
  • 無礼さを目撃するだけでも、協力行動が51%から25%に半減し、業績の低下につながる⁵
  • 無礼さは「見ている人」にも認知的損害を与え、語句パズルの成績が有意に低下する⁴
  • 目撃した顧客(患者)の信頼感は80%から20%へ激減する⁵
  • 医療現場では、無礼さが医療ミスや有害事象に関連すると、スタッフの70〜72%が回答している⁸
  • 適切な介入によって、約70%のケースで改善が見込める²

「あの一言」は偶然の出来事ではなく、連鎖するメカニズムを持っています。そして、そのメカニズムは科学的に解明されており、対策も存在します。

職場環境を変えるのは大きなプロジェクトではなく、一人ひとりが今日から始められる小さな礼節の積み重ねから始まります。

▶ 後編:院内の「お局問題」と歯科医院のジェンダー構造 ── 「なぜこんなに働きにくいのか」を科学的に考える

9. 参考文献

  1. Tit for Tat? The Spiraling Effect of Incivility in the Workplace(1999)
    職場における無礼さのスパイラル効果
    https://journals.aom.org/doi/10.5465/amr.1999.2202131
  2. On the nature, consequences and remedies of workplace incivility: No time for “nice”? Think again(2005)
    職場の無礼さの本質・結果・是正策:「感じよくする時間はない」は本当か
    https://journals.aom.org/doi/10.5465/ame.2005.15841946
  3. Does Rudeness Really Matter? The Effects of Rudeness on Task Performance and Helpfulness(2007)
    無礼さは本当に重要か?課題パフォーマンスと協力行動への影響
    https://journals.aom.org/doi/10.5465/amj.2007.20159919
  4. The Decline in Task Performance After Witnessing Rudeness Is Moderated by Emotional Empathy—A Pilot Study(2020)
    無礼さを目撃した後の課題パフォーマンス低下は感情的共感によって調節される:パイロット研究
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7358519/
  5. The Price of Incivility(2013)
    無礼さのコスト
    https://hbr.org/2013/01/the-price-of-incivility
  6. Lashing out: emotional exhaustion triggers retaliatory incivility in the workplace(2021)
    感情的疲弊が職場における報復的無礼さを引き起こす
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC8749205/
  7. Predictors and triggers of incivility within healthcare teams: a systematic review of the literature(2020)
    医療チーム内の無礼さの予測因子とトリガー:文献の系統的レビュー
    https://bmjopen.bmj.com/content/bmjopen/10/6/e035471.full.pdf
  8. The impact of interprofessional incivility on medical performance, service and patient care: a systematic review(2023)
    職種間の無礼さが医療パフォーマンス・サービス・患者ケアに及ぼす影響:系統的レビュー
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10538688/
  9. Identifying the Key Elements of Psychologically Safe Workplaces in Healthcare Settings(2023)
    医療現場における心理的安全な職場の主要要素の同定
    https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10605501/
  10. Speaking Up and Taking Action: Psychological Safety and Joint Problem-Solving Orientation in Safety Improvement(2024)
    声を上げ行動する:安全改善における心理的安全性と共同問題解決志向
    https://www.mdpi.com/2227-9032/12/8/812


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