「医療費自己負担が増えても寿命は変わらない?」歯科受診と残存歯数・死亡リスクの本当の関係
目次
- 高齢者の医療費自己負担と「生存率」の関係
- 自己負担が上がると、特に歯科受診が減りやすい
- 歯を失うことと長期的な死亡リスク
- 「時間軸」と「レベル」で整理すると矛盾しない
4-1. 時間軸:短期(数年) vs 長期(10年〜)
4-2. レベル:政策レベルの平均効果 vs 個人レベルのリスク - 歯を守ることは「将来の自分」への投資
1. 高齢者の医療費自己負担と「生存率」の関係
「医療費の自己負担を増やしたら、高齢者の健康や寿命は悪くなるのでは?」と心配される方は多いと思います。
実は、日本や海外の大規模な研究では、「自己負担を変えると受診行動は大きく変わるけれど、観察された期間・集団全体で見ると、平均的な死亡率には大きな差が出ていない」という結果が繰り返し報告されています。
例えば、東京大学 公共政策大学院 教授 重岡さんの2014年における研究では、70歳になるタイミングで医療費の自己負担割合が大きく下がる自然実験を利用し、約200万人の高齢者のデータを分析しました。
自己負担が下がると外来・入院ともに受診は明らかに増えましたが、その一方で、少なくとも数年スパンで見たときの死亡率には、統計的に大きな差は見られませんでした。

同じような結果は、アメリカで行われた有名な「RAND Health Insurance Experiment」でも報告されています。
ここでも、自己負担が高い保険に入った人たちは受診回数が少なくなったものの、平均的な健康指標や死亡率は、低所得で健康リスクの高い一部の人を除けば、ほとんど変わらなかったとされています。
このように、「自己負担を変えても、観察された期間・集団全体では、平均的な死亡率には大きな差が出なかった」と言われるのは、こうした研究結果に基づいています。
2. 自己負担が上がると、特に歯科受診が減りやすい
しかし、「受診行動が変わる」の中身をよく見ると、歯科はかなり厳しい立場に置かれています。
同じテーマを扱った東北大学大学院経済学研究科 教授、湯田さんの分析でも、自己負担が高くなると、高齢者の外来受診や検査は全体として減少することが示されています。同研究の9つの健康指標(主観的健康感、ADL、握力、精神健康、生活習慣病、慢性疾患、BMI、義歯、咀嚼)を用いた分析では、負担率の減少が健康を劇的に改善させるという一貫した証拠は見られなかったことが示されています。
2022年10月、日本では一定以上の所得がある後期高齢者の医療費窓口負担が1割から2割に引き上げられました。
主な制度改正の歴史
日本の自己負担率は、職域、年齢、所得に応じて細かく設定され、頻繁に改定されてきた。
| 年月 | 国民健康保険 | 被用者保険(本人) | 被用者保険(家族) | 70歳以上 |
|---|---|---|---|---|
| 1961年4月 | 50% | 初診時定額 | 50% | – |
| 1973年1月 | 30% | 初診時定額 | 30% | 無料化 |
| 1984年10月 | 30% | 10% | 30% | 定額負担 |
| 1997年9月 | 30% | 20% | 30% | 定額負担増 |
| 2003年4月 | 30% | 30% | 30% | 10% |
| 2022年10月 | 30% | 30% | 30% | 1割/2割* |
*一定以上の所得がある高齢者が2割負担の対象。
厚生労働科学研究費補助金による政策科学総合研究:早稲田大学の研究チームは、この制度変更の前後で全国約137万人のデータを詳しく分析しました。
制度変更直前の2022年9月には、将来の負担増を見越した「駆け込み受診」が起こり、医療費総額は約4%増加しました。ところが制度が実施された2022年10月以降は、医療費総額は当初6%減少し、その後も約3%減で推移しました。

最も注目すべき点は、この医療費削減がどの診療科で起きたかです。診療科別に見ると、圧倒的に歯科が減ったのです。虫歯(う蝕)の外来利用が約16%減少し、歯周疾患の外来利用が約6.9%減少しました。これは糖尿病の受診減(3.5%)や高血圧の受診減(5.1%)と比べても大きな落ち込みです。
理由はシンプルで、「今すぐ命に関わるわけではない」という認識が強いからです。
お金に余裕がないとき、多くの方は「とりあえず歯医者はやめておこう」「痛くなったら行けばいい」と考えがちです。実際、自己負担が上がったタイミングで、真っ先に削られやすいのが歯科診療だ、というデータが出ています。
その結果、
- むし歯や歯周病が放置される
- 義歯の不調を我慢してしまう
- 定期的なクリーニングやメンテナンスが中断される
といったことが起こりやすくなります。短期的には「痛くないから大丈夫」と感じても、治療やメンテナンスのタイミングを逃すことで、抜歯が増えたり、噛める歯が減ったりするリスクが高まります。
3. 歯を失うことと長期的な死亡リスク
では、「歯を失うこと」自体は、健康や寿命とどのように関わるのでしょうか。
日本の高齢者を対象にした
大阪歯科大学 欠損歯列補綴咬合学講座 教授 前川 らの研究では、65歳以上の地域在住高齢者を約10年間追跡し、「残っている歯の本数」だけでなく、「実際に噛むことに使える機能歯の本数」と、その後の全死亡との関係を調べました。
その結果、単純な残存歯数よりも、「機能歯の本数」が全死亡リスクをより強く予測しており、機能歯が少ない人ほど死亡リスクが高いことが示されました。
中国の高齢者約4万人を対象とした Dai らのコホート研究では、歯を多く失っている人は、歯が多く残っている人と比べて、その後の全死亡および心血管疾患・呼吸器疾患などの原因別死亡のリスクが高いことが報告されています。
さらに、セルビアの高齢者を対象にした Abdurrahman らの研究でも、無歯顎や少数歯の人は残存歯が多い人に比べて、死亡リスクが有意に高いという結果が示されています。
これらの研究に共通しているのは、
つまり、「歯を失うと死亡リスクが上がる」というのは、「抜歯をした翌年に急に寿命が縮む」という話ではなく、栄養状態、筋力・体力、フレイル、サルコペニア、社会参加などに少しずつ影響し、その積み重ねが10年単位の予後に効いてくる、というものです。
4. 「時間軸」と「レベル」で整理すると矛盾しない
ここまでを、「時間軸」と「レベル」という二つの視点で整理すると、
- 「自己負担を変えても、生存率はあまり変わらない」
- 「歯を失うと、死亡リスクが上がる」
という、一見矛盾して見える二つのメッセージが、実は両立していることが分かります。
4-1. 時間軸:短期(数年) vs 長期(10年〜)
医療費の自己負担を変える政策の影響は、多くの場合、「変化前後の数年間」で評価されます。
このスケールでは、自己負担が高くなっても、
一方、歯の本数や噛める歯の数と死亡リスクの関係は、10年前後の長期追跡で評価されています。
歯を失うことの影響は、
- 噛めない → 食事内容の偏り・低栄養
- 低栄養 → 筋力低下・フレイル
- フレイル → 転倒・骨折・入院
- これらの積み重ね → 長期的な死亡リスクの上昇
という長い道のりをたどります。短期間では目立たない変化が、10年単位で見ると、統計的に有意な差となって現れるのです。
4-2. レベル:政策レベルの平均効果 vs 個人レベルのリスク
もう一つの違いは、「誰を対象にしているか」です。
医療費の自己負担率を変える議論は、国や自治体など「政策レベル」の話で、対象は日本全体・高齢者全体といった非常に大きな集団です。元気な人、持病のある人、介護が必要な人など、多様な人が一緒くたに含まれるため、「自己負担を何%にしたか」だけで平均的な死亡率を大きく動かすのは簡単ではありません。
一方、残存歯数や機能歯数の研究は、同じ集団の中で「歯が多く残っている人」と「歯をほとんど失っている人」を「個人レベル」で比較しています。
ここでの問いは、
- 「制度をどうするか」ではなく
- 「自分の口の状態が、その人自身の長期的な健康・寿命とどう関わるか」
です。
この二つの違いを意識すると、
- 政策レベルの問い:
「自己負担を少し増減したときに、高齢者全体の平均的な死亡率はどの程度変わるのか?」 - 個人レベルの問い:
「自分の歯をどれだけ多く、機能的に保てた人が、10年後も元気でいられる確率はどれくらい違うのか?」
という、別々の質問に対する答えが、それぞれの研究から得られていることが分かります。
したがって、「自己負担の増減だけでは、生存率はあまり変わらない」という結果と、「歯を失うと、死亡リスクが上がる」という結果は、時間軸とレベルが違うだけで、決して矛盾しているわけではありません。
5. 歯を守ることは「将来の自分」への投資
医療費の自己負担を何%にするかという議論は、国や自治体の財政、世代間の負担、公平性など、非常に大きなテーマを含んでいます。研究が示しているのは、「自己負担を変えても、観察された期間・集団全体では、平均的な死亡率には大きな差が出ていない」という、あくまで限定された条件での結論です。
しかし、個々人のレベルで見れば、「歯をできるだけ多く、しかも噛める状態で保つこと」が、自分自身の将来の健康リスクを下げるうえで、とても大切な役割を果たしていることも、同じく科学的な研究から明らかになっています。
自己負担が上がると、「とりあえず歯医者はやめておこう」と感じるのは自然な反応です。
ただし、その選択を長く続けると、
- むし歯や歯周病が進行して抜歯が増える
- 噛める歯が減って食事が偏る
- 体力や筋力が落ち、フレイルや要介護のリスクが上がる
といった形で、10年後・20年後のご自分の健康に跳ね返ってくる可能性があります。
当院としては、
- 「痛くなってからの受診」ではなく、「痛くならないための定期的な予防・メンテナンス」
- 「抜くしかない状態」になる前に、「できるだけ歯を残す治療の選択」
- もし歯を失ってしまった場合でも、「噛める状態を取り戻すための義歯やインプラントなどの補綴治療」
を通じて、患者さん一人ひとりの「長期的な健康寿命」を支えたいと考えています。
「今月は忙しいから、歯医者はまた今度でいいか…」と思ったときに、ぜひ一度、「今の一本を守ることが、10年後の自分の体を守ることにつながるかもしれない」という視点も思い出していただければ幸いです。
気になる症状がなくても、
- 半年〜1年に一度の定期検診
- 歯周病のチェックとクリーニング
- 義歯の当たり具合や噛み合わせの確認
これらは、「将来の自分」に向けた小さな投資です。お気軽にご相談ください。
参考文献
- Shigeoka H. (2014)
The Effect of Patient Cost Sharing on Utilization, Health, and Risk Protection | NBER
医療費自己負担が受診行動・健康・リスク保護に与える影響
https://www.nber.org/papers/w19726
https://www.aeaweb.org/articles?id=10.1257/aer.104.7.2152
https://www.e-stat.go.jp/microdata/sites/default/files/share/data-use/jirei/02_jirei.pdf - Newhouse JP, et al. (2008)
What Does the RAND Health Insurance Experiment Tell Us About the Impact of Patient Cost Sharing on Health Outcomes?
RAND健康保険実験は医療費自己負担と健康結果の関係について何を教えてくれるか
https://www.ajmc.com/view/jul08-3414p412-414 - Yuda M. (2023)
Effects of Patient Cost Sharing on Healthcare Utilization and Health
医療費自己負担が医療利用と健康に与える影響
https://www.jstage.jst.go.jp/article/prippr/19/4/19_19-4-5/_article [PDF] - 及川雅斗ほか(2024)
窓口負担割合の変更が後期高齢者の受診・受療行動に与えた影響の評価-2022年10月の制度変更によるエビデンス-
https://mhlw-grants.niph.go.jp/system/files/report_pdf/202301004A-buntan2_2024August26_HNedit2024Aug27.pdf - Maekawa K, et al. (2020)
Number of functional teeth more strongly predicts all‐cause mortality than number of present teeth in Japanese older adults
日本人高齢者において、機能歯数は残存歯数よりも全死亡を強く予測する
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7317780 - Dai M, et al. (2023)
Tooth loss, denture use, and all-cause and cause-specific mortality in older adults: A cohort study using the Chinese Longitudinal Healthy Longevity Survey
高齢者における歯の喪失・義歯使用と全死亡および原因別死亡:Chinese Longitudinal Healthy Longevity Surveyを用いたコホート研究
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpubh.2023.1194054/full - Abdurrahman F, et al. (2025)
Tooth loss, dental prosthesis use, and cause-specific mortality in older adults
高齢者における歯の喪失・歯科補綴物使用と原因別死亡
https://www.nature.com/articles/s41598-025-24357-1 - Kazi DS, et al. (2022)
Cost-sharing and adherence, clinical outcomes, health care use, and costs: A systematic review
医療費自己負担と服薬アドヒアランス・臨床転帰・医療利用・医療費:系統的レビュー
https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10394195/
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